2007年2月24日土曜日

自己紹介(2002年)

以下は,学習院に赴任してちょうど1年になる頃(2002年初頭)に法学部のパンフレットに載せるために書いた自己紹介.今ではこれを書いた頃ほど「法学」という枠組みにこだわっていないけれど,基本的には,昔からずっと同じようなことを考えています.

なぜ、研究者に?

 少し、思い出話におつきあい下さい。高校生の頃、私は漠然と社会科学の分野に興味を持っていました。そして、3年生の夏、退屈な受験勉強を続けつつ、どこの大学のどの学部を受けようか迷いつづけていました。とりわけ、経済学を勉強するか、政治学を勉強するか、どちらにしようか、と。結局、秋も深まり、文化祭でちょっとしたパネルディスカッションを企画する中、人間自体、そしてその集団としての行動をより深く探求していると思われる政治学を学ぼう、と決意しました。こうして私は法学部に進むことにしたのです。当時は、インターネットがなかったため、大学に関する情報を集める手段は限られていました。今にして思えば、情報も集めずに一人よがりに考えていたような気がします。

 なんとか翌春に大学に合格した私を待っていたのは、楽しい学生生活でした。宴会や徹夜での語り、映画や音楽。数多くの魅力的な授業(私の入った大学は全国でも有数の一般教養が充実したところでした)。そして、人によっては大学に出てこず、バイトに明け暮れているかと思いきや、サークル活動に熱心な人もいる。司法試験の予備校に通う人もいる。

 このような、みんなが好き勝手に思うことをやっている空間で、ある一つの勉強に精力的に立ち向かうのはよっぽどの決意を要します。少なくとも、私の場合、政治学を一生懸命勉強しようという決意はもろくも崩れました。高校までの世界史や古文・漢文を勉強するのと同じスタイルで勉強するわけにはいかないのです。大学では、高校までと違って、基本的には自分で勉強するほかなかったのです。別に政治学に魅力がなかったわけではありません。ただ、他にもやりたいことがたくさんあったのです。

 そして、いくつもチャレンジしたいことがある私は、結局どれも中途半端に足を突っ込んでしまっていました。哲学しかり、経済学しかり、文学批評も、フルートも、テニスも。気がついてみると、なんとなく大学の授業を消化するだけで、専門課程に進むことになっていました。政治学にもなんだかなじめないなと思い、消去法で法学を選び、授業に出ていましたが、なんだか難しくてよくわからないというのが正直なところでした。周りの友達と共に司法試験の勉強を始めてはみましたが、それも投げ出すことになりました。

 こうして続いていた、なんとなく勉強しなんとなく遊ぶという生活を見直さざるをえなくなったのは、大学3年も終わり、就職活動の声が聞かれる頃でした。単なる面接の練習のつもりで参加したある外資系証券会社の研修(スプリング・ジョブ)で経済学の一領域であるコーポレートファイナンスの考え方を知り、法学部で勉強した商法との発想の違いに驚き、経済学と法学の考え方の違いに興味を持ったのです。そもそも、高校のときには経済学を勉強することを真剣に考えていたくらいですから、経済学のものの考え方には割と共感していたつもりでした。しかし、それと法学部で学んだものは何か違う。そのことを、遅れ馳せながらこのスプリング・ジョブに参加したときに、はっきり意識したのです。

 ちょうどこの頃、3年生の学部試験がありました。その準備を通して、法学の諸科目の相互の関係や考え方の微妙な違いがわかってきました。このときやっと法学が少し面白いと思えてきました。

 ただ、4年生になった時点では(当時は就職活動が本格的に始まるのは、早くても5月でした)、研究者になるつもりは毛頭ありませんでした。世の中には私などよりずっと頭の良い人がたくさんいて、そういう人が研究者になるのだろうと思っていました。そうして、5月末にある丸の内の会社の内々定をいただくことができ、そのまま翌4月からは会社員になるつもりでいました。

 ところが、就職活動の合間に出ていた法学部の科目が意外と面白かった。商取引法、国際私法、財政学、ドイツ法そして租税法。それに、日本政治思想史のゼミ。商取引法、国際私法の授業では、さまざまな法分野に横断的に言及していて、実際に法が社会の中でどのように機能しているのかよくわかりました。ドイツ法の授業は、現在の法学の状況を歴史の中に位置づけてくれました。財政学と租税法、とりわけ後者は、法学と経済学の発想の違いを明示し、そこを大胆に架橋しようとする試みを提示してくれました。ゼミでは、高名な政治学者、丸山眞男の著作を読むなかで、また教授の語りから、学問をすることの楽しさを改めて知りました。幸い、就職活動が終わっており、じっくりものを考える時間がありました。

 7月に入って決意しました。やはり、研究者を目指してみよう。そして専攻は、高校以来の関心と最も近い租税法にしよう、と。意を決して、授業のあと、租税法の教授に声をかけ、思いの丈を述べました。教授に声をかける瞬間、教室のある建物から研究室のある建物へ歩く間に話したこと、研究室のある建物の応接室での教授の表情、すべてを今でも克明に覚えています。教授のアドバイスは、まず、何か短い論文を書いてみたらよい、というものでした。より詳細な助言を受け、雑誌を調べ、本をコピーして論文を書くうちに、研究への思いは、確信へと変わっていきました。私にこの仕事が向いているかどうかはよくわからないが、少なくとも、とても楽しい、と思えたのです。そこで、大学院の合格発表を待たず会社のほうには断りを入れました。運良く、助手として採用されることになり、翌年の4月から3年間、研究に専念することができました。この3年間に、数々のおもしろい書物、心に残る授業、畏敬すべき先生方に出会うことができ、4年生の時の直感は間違っていなかったとわかりましたが、そのことはまた別の機会に話すことにしましょう。

 助手の任期を終え、学習院大学法学部に赴任して1年が経ちます。以上のような経緯で知った法学の面白さを、学生諸君に伝えたい、というのが教育における私の目標です。(『社会との座標軸』より転載)
 
 

インプットとアウトプット

法学の勉強は,知らないと始まらない,ということが多い.いくらセンスが良くても,いくら頭が良くても,実際に法制度や法律がどうなっているかを知らないと,論文が書けないし,発言もできない.日本の法律だけでなく,外国の法律も知っていることが望ましいとされるから,語学もあり程度出来ないといけない.

しかし,いい論文には,やはり何らかの優れたアイデアが必要である.日本の法律はこうなっています,アメリカの法律はこうなっています,というだけでは,紹介にはなっても論文とは言えない.法制度や学説の前提となっている大きな枠組みを理解せずに,表面的に事象を描くのは,自分の思わぬ方向にその議論が利用される可能性があることを考えると,危険ですらある.何らかの根本的なアイデアがあって,それを具体的な事例で肉付け,できれば論証していく,というのが私の考える理想的な法学の論文である.

ともかく,法学において,アウトプットの分量に比して,そのために必要なインプットの分量は多い.ある程度着想があってもなお,それを論証するために文献を渉猟することも少なくない.というのも,書き表したいアイデアがあるのに,それを裏付けるものが足りていないということが多いからだ.

こういうとき,ある意味,かなりイライラする.直接関係ないものまで,いろいろな文献を見て,使えるデータや判例がないか探さねばならず,多くの場合,徒労に終わるからだ.もっとも,アイデアがあるときにこそ,様々な文献を読まなくてはならないとも言える.自分の中で何か枠組みがあれば,その枠組みを検証する形で,能動的に文献を読むことができ,そうすると新たな発見の可能性も高くなるからである.いずれにせよ,アウトプットをしたいときにこそ,インプットをしなくてはならない.しかし,インプットが自己目的化すると,アウトプットに結びつかなくなる.難しい.