2008年は、ボストンから東京に戻り、授業の準備などで忙殺されてしまいました。いくつか書いた論文や調査報告は、未完であったり活字になっていなかったりという状況です。このブログで報告すべき2008年の研究業績は、民事法研究会から出ているL&Tという雑誌に寄稿した、
「所得課税のアキレス腱」L&T41号168頁(2008年10月)
のみです。わずか1ページのものですが、今後の租税法研究の方向性について述べています。近いうちに全文をホームページに載せるようにします。
2007年11月20日火曜日
『租税法の基本問題』刊行!
金子宏編『租税法の基本問題』(有斐閣)が刊行されました。
以前に予告したとおり、
「所得課税における年度帰属の問題」
「法人税の納税義務者」
という二本の論文を寄稿しています。
「所得課税における年度帰属の問題」では、ラフに言えば、所得課税における重要な概念である「実現(realization)」が資産の帰属という問題と密接に絡み合っているということ、資産の帰属は私法上の「所有権」というよりは「自主占有」を基準としていること、を述べています。本稿で扱った問題については、同じ論文集の谷口教授(大阪大学)、中里教授(東京大学)の論文でも詳しく検討されています。
「法人税の納税義務者」では、法人税についてどのような見方をするかによって、法人税の納税義務者の範囲も異なってくるということ、では具体的にどのような見方があり、それらによればどうなるのか、ということを概説しています。私の見解を述べるというよりも、既存の議論を整理し、今後の議論の見通しを良くすることを意図しています。同じ論文集の増井教授(東京大学)の論文のテーマとも部分的に重なります。
非常に高価(12,000円)ですが、租税法の研究状況がわかる貴重な書物に仕上がっています。個人的には、書いたものが初めて(雑誌ではなく)単行本に収められたので、とても嬉しく思います。
以前に予告したとおり、
「所得課税における年度帰属の問題」
「法人税の納税義務者」
という二本の論文を寄稿しています。
「所得課税における年度帰属の問題」では、ラフに言えば、所得課税における重要な概念である「実現(realization)」が資産の帰属という問題と密接に絡み合っているということ、資産の帰属は私法上の「所有権」というよりは「自主占有」を基準としていること、を述べています。本稿で扱った問題については、同じ論文集の谷口教授(大阪大学)、中里教授(東京大学)の論文でも詳しく検討されています。
「法人税の納税義務者」では、法人税についてどのような見方をするかによって、法人税の納税義務者の範囲も異なってくるということ、では具体的にどのような見方があり、それらによればどうなるのか、ということを概説しています。私の見解を述べるというよりも、既存の議論を整理し、今後の議論の見通しを良くすることを意図しています。同じ論文集の増井教授(東京大学)の論文のテーマとも部分的に重なります。
非常に高価(12,000円)ですが、租税法の研究状況がわかる貴重な書物に仕上がっています。個人的には、書いたものが初めて(雑誌ではなく)単行本に収められたので、とても嬉しく思います。
2007年8月5日日曜日
契約と代理
agency=代理、contract=契約、corporation=会社、property=物権。このように訳すのは、間違いではない。それどころか、高校の英語のテストでこのように訳せば、満点であることは間違いない。しかし、翻訳は時に誤解を招く。アメリカで一年、ケースブックやら授業のレジュメやらに目を通してやっと、おぼろげながら、自分が手にしていた日本法の地図と、アメリカ法の森とを照らし合わせるための、光が見えてきた。
かいつまんで言えば、アメリカ法のcontractsとは、日本で言う契約よりもずっと狭い。そして、日本で言う契約の重要な部分は、あえて分類するならば、agencyとして論じられている。僕の大好きな来栖三郎『契約法』で扱われている契約類型たちは、アメリカのcontractsの教科書には出てこない。
樋口範雄『アメリカ代理法』のような、日本でもアメリカでも十分に日が当たっていない、しかし大切な分野をカバーする業績は貴重だ。ただ、この本を見ると、アメリカでこの分野の研究が決して十分にはなされていないことがわかる。クラインとコフィーの会社法の教科書がagencyから叙述を始めているように、会社法の基礎となる重要なジャンルなのに。
アメリカでも日本でも、研究には流行がある。代理についてアメリカではあまり議論がない以上に、信託についてはあまり議論がない。授業すら、あまり力が入れられていない。日本で信託というと一大研究分野で、「商事信託」などについては、「本場」アメリカでは相当な議論の蓄積があるかと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。
それにしても、『アメリカ代理法』ですら、そこにいう「代理」が日本法では何に対応するかということについては、あまり述べていない。当事者が対等な関係だとcontract、当事者間に情報や力の面で差がある場合には、agency、日本だと両者とも「契約」、という印象を抱いているが、どうだろうか。
かいつまんで言えば、アメリカ法のcontractsとは、日本で言う契約よりもずっと狭い。そして、日本で言う契約の重要な部分は、あえて分類するならば、agencyとして論じられている。僕の大好きな来栖三郎『契約法』で扱われている契約類型たちは、アメリカのcontractsの教科書には出てこない。
樋口範雄『アメリカ代理法』のような、日本でもアメリカでも十分に日が当たっていない、しかし大切な分野をカバーする業績は貴重だ。ただ、この本を見ると、アメリカでこの分野の研究が決して十分にはなされていないことがわかる。クラインとコフィーの会社法の教科書がagencyから叙述を始めているように、会社法の基礎となる重要なジャンルなのに。
アメリカでも日本でも、研究には流行がある。代理についてアメリカではあまり議論がない以上に、信託についてはあまり議論がない。授業すら、あまり力が入れられていない。日本で信託というと一大研究分野で、「商事信託」などについては、「本場」アメリカでは相当な議論の蓄積があるかと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。
それにしても、『アメリカ代理法』ですら、そこにいう「代理」が日本法では何に対応するかということについては、あまり述べていない。当事者が対等な関係だとcontract、当事者間に情報や力の面で差がある場合には、agency、日本だと両者とも「契約」、という印象を抱いているが、どうだろうか。
2007年7月13日金曜日
近刊予定
久しぶりに論文を公表することになりました。約2年ぶりです。
11月に刊行される、
金子宏編『租税法の基本問題』(有斐閣)という論文集に、
「法人税の納税義務者」
「所得課税における年度帰属の問題」
という2本を寄稿します。
いずれも、本格的な論文というよりは、既存の論点に関する議論の整理の域を出ないものですが、今まで指摘されてこなかった視点を盛り込んだつもりです。
この他、来年3月刊行予定の東大のCOEの研究叢書に「社会規範と租税法」と題する論文を執筆する予定です。さらに、ジュリストの租税法研究会の欄に、一昨年来温め続けているテーマで論文を載せようかと考えています。
11月に刊行される、
金子宏編『租税法の基本問題』(有斐閣)という論文集に、
「法人税の納税義務者」
「所得課税における年度帰属の問題」
という2本を寄稿します。
いずれも、本格的な論文というよりは、既存の論点に関する議論の整理の域を出ないものですが、今まで指摘されてこなかった視点を盛り込んだつもりです。
この他、来年3月刊行予定の東大のCOEの研究叢書に「社会規範と租税法」と題する論文を執筆する予定です。さらに、ジュリストの租税法研究会の欄に、一昨年来温め続けているテーマで論文を載せようかと考えています。
2007年3月12日月曜日
専門性について
他に進む道があったのに,研究職を選んだ,ということを意識しない日は少ない.会社に入っていたら今頃どうなっていたか,公務員だったらどうか.そして,同級生の活躍を見ると,10年近く,法律の一分野の研究しかしてこなかった自分自身が,頼りなく思えることが少なくない.情けないことに,法律の中の租税法,さらにその中でも知っていること,自信を持って人に話せることは,驚くほど少ない.研究を進める際には,できるだけ幅を広げなくてはと思い,できるだけ租税法以外の法律も,また法学以外も勉強するように努めてきた.しかし,何でも知ろうとするのは,何でもできるようになろうとするのは,そもそも無理な相談かもしれない.このことを考えると,何とも,不安にならざるを得ない.
以上のようなことが頭の中にある私にとって,以下に引用するフルート奏者,斎藤和志さんのブログの文章は何とも力づけられるものである.斎藤さんは,一方では,コンクールしか頭になくて,音楽自体を理解したり楽しんだりする余裕がなくなっている音大生の現状(それは彼が通ってきた道でもある)を批判しつつ,返す刀で,かといって技術を軽視するべきではないとも言う.さらに,次のように続ける.
「たとえ、技術も、さらに伝えたい音楽もある人であっても、人生のすべてを音楽に投入して無我夢中、ある意味で視野がグーンと狭くなった時期のない人の音楽ってのは、どこかしら軽いと感じることも多いのです。苦労してない人の音楽は軽いといいますかなんと言うか。
プロは舞台裏での苦労など微塵も見せずに華麗な演奏を繰り広げるもの、という考えもありますが、そういうことに関しては、人間というのは敏感ですね。
そう考えると、ひたすら偏執狂的に楽器の練習にだけ打ち込み、ひたすらに耐え抜くという時期も、次へのステップとして重要な時期なのかも知れませんね。」(音大で勉強している人達3,2007年1月22日)
昨年,数回にわたって,斎藤さんの演奏をライヴで耳にする機会があったが,フルートという楽器の美しさが深く心に沁みた.そんな彼の語る芸術論には説得力を感じざるを得ない.そして,芸術におけるこのような人間性の表出と同じことが,研究においても,とりわけ法学の研究においても言えるかどうかはわからないものの,私は斎藤さんの書かれていることが法学の研究についても言えると信じたい.というわけで,目の前にある課題にとりあえず全力投球することにしよう.
以上のようなことが頭の中にある私にとって,以下に引用するフルート奏者,斎藤和志さんのブログの文章は何とも力づけられるものである.斎藤さんは,一方では,コンクールしか頭になくて,音楽自体を理解したり楽しんだりする余裕がなくなっている音大生の現状(それは彼が通ってきた道でもある)を批判しつつ,返す刀で,かといって技術を軽視するべきではないとも言う.さらに,次のように続ける.
「たとえ、技術も、さらに伝えたい音楽もある人であっても、人生のすべてを音楽に投入して無我夢中、ある意味で視野がグーンと狭くなった時期のない人の音楽ってのは、どこかしら軽いと感じることも多いのです。苦労してない人の音楽は軽いといいますかなんと言うか。
プロは舞台裏での苦労など微塵も見せずに華麗な演奏を繰り広げるもの、という考えもありますが、そういうことに関しては、人間というのは敏感ですね。
そう考えると、ひたすら偏執狂的に楽器の練習にだけ打ち込み、ひたすらに耐え抜くという時期も、次へのステップとして重要な時期なのかも知れませんね。」(音大で勉強している人達3,2007年1月22日)
昨年,数回にわたって,斎藤さんの演奏をライヴで耳にする機会があったが,フルートという楽器の美しさが深く心に沁みた.そんな彼の語る芸術論には説得力を感じざるを得ない.そして,芸術におけるこのような人間性の表出と同じことが,研究においても,とりわけ法学の研究においても言えるかどうかはわからないものの,私は斎藤さんの書かれていることが法学の研究についても言えると信じたい.というわけで,目の前にある課題にとりあえず全力投球することにしよう.
2007年2月24日土曜日
自己紹介(2002年)
以下は,学習院に赴任してちょうど1年になる頃(2002年初頭)に法学部のパンフレットに載せるために書いた自己紹介.今ではこれを書いた頃ほど「法学」という枠組みにこだわっていないけれど,基本的には,昔からずっと同じようなことを考えています.
なぜ、研究者に?
少し、思い出話におつきあい下さい。高校生の頃、私は漠然と社会科学の分野に興味を持っていました。そして、3年生の夏、退屈な受験勉強を続けつつ、どこの大学のどの学部を受けようか迷いつづけていました。とりわけ、経済学を勉強するか、政治学を勉強するか、どちらにしようか、と。結局、秋も深まり、文化祭でちょっとしたパネルディスカッションを企画する中、人間自体、そしてその集団としての行動をより深く探求していると思われる政治学を学ぼう、と決意しました。こうして私は法学部に進むことにしたのです。当時は、インターネットがなかったため、大学に関する情報を集める手段は限られていました。今にして思えば、情報も集めずに一人よがりに考えていたような気がします。
なんとか翌春に大学に合格した私を待っていたのは、楽しい学生生活でした。宴会や徹夜での語り、映画や音楽。数多くの魅力的な授業(私の入った大学は全国でも有数の一般教養が充実したところでした)。そして、人によっては大学に出てこず、バイトに明け暮れているかと思いきや、サークル活動に熱心な人もいる。司法試験の予備校に通う人もいる。
このような、みんなが好き勝手に思うことをやっている空間で、ある一つの勉強に精力的に立ち向かうのはよっぽどの決意を要します。少なくとも、私の場合、政治学を一生懸命勉強しようという決意はもろくも崩れました。高校までの世界史や古文・漢文を勉強するのと同じスタイルで勉強するわけにはいかないのです。大学では、高校までと違って、基本的には自分で勉強するほかなかったのです。別に政治学に魅力がなかったわけではありません。ただ、他にもやりたいことがたくさんあったのです。
そして、いくつもチャレンジしたいことがある私は、結局どれも中途半端に足を突っ込んでしまっていました。哲学しかり、経済学しかり、文学批評も、フルートも、テニスも。気がついてみると、なんとなく大学の授業を消化するだけで、専門課程に進むことになっていました。政治学にもなんだかなじめないなと思い、消去法で法学を選び、授業に出ていましたが、なんだか難しくてよくわからないというのが正直なところでした。周りの友達と共に司法試験の勉強を始めてはみましたが、それも投げ出すことになりました。
こうして続いていた、なんとなく勉強しなんとなく遊ぶという生活を見直さざるをえなくなったのは、大学3年も終わり、就職活動の声が聞かれる頃でした。単なる面接の練習のつもりで参加したある外資系証券会社の研修(スプリング・ジョブ)で経済学の一領域であるコーポレートファイナンスの考え方を知り、法学部で勉強した商法との発想の違いに驚き、経済学と法学の考え方の違いに興味を持ったのです。そもそも、高校のときには経済学を勉強することを真剣に考えていたくらいですから、経済学のものの考え方には割と共感していたつもりでした。しかし、それと法学部で学んだものは何か違う。そのことを、遅れ馳せながらこのスプリング・ジョブに参加したときに、はっきり意識したのです。
ちょうどこの頃、3年生の学部試験がありました。その準備を通して、法学の諸科目の相互の関係や考え方の微妙な違いがわかってきました。このときやっと法学が少し面白いと思えてきました。
ただ、4年生になった時点では(当時は就職活動が本格的に始まるのは、早くても5月でした)、研究者になるつもりは毛頭ありませんでした。世の中には私などよりずっと頭の良い人がたくさんいて、そういう人が研究者になるのだろうと思っていました。そうして、5月末にある丸の内の会社の内々定をいただくことができ、そのまま翌4月からは会社員になるつもりでいました。
ところが、就職活動の合間に出ていた法学部の科目が意外と面白かった。商取引法、国際私法、財政学、ドイツ法そして租税法。それに、日本政治思想史のゼミ。商取引法、国際私法の授業では、さまざまな法分野に横断的に言及していて、実際に法が社会の中でどのように機能しているのかよくわかりました。ドイツ法の授業は、現在の法学の状況を歴史の中に位置づけてくれました。財政学と租税法、とりわけ後者は、法学と経済学の発想の違いを明示し、そこを大胆に架橋しようとする試みを提示してくれました。ゼミでは、高名な政治学者、丸山眞男の著作を読むなかで、また教授の語りから、学問をすることの楽しさを改めて知りました。幸い、就職活動が終わっており、じっくりものを考える時間がありました。
7月に入って決意しました。やはり、研究者を目指してみよう。そして専攻は、高校以来の関心と最も近い租税法にしよう、と。意を決して、授業のあと、租税法の教授に声をかけ、思いの丈を述べました。教授に声をかける瞬間、教室のある建物から研究室のある建物へ歩く間に話したこと、研究室のある建物の応接室での教授の表情、すべてを今でも克明に覚えています。教授のアドバイスは、まず、何か短い論文を書いてみたらよい、というものでした。より詳細な助言を受け、雑誌を調べ、本をコピーして論文を書くうちに、研究への思いは、確信へと変わっていきました。私にこの仕事が向いているかどうかはよくわからないが、少なくとも、とても楽しい、と思えたのです。そこで、大学院の合格発表を待たず会社のほうには断りを入れました。運良く、助手として採用されることになり、翌年の4月から3年間、研究に専念することができました。この3年間に、数々のおもしろい書物、心に残る授業、畏敬すべき先生方に出会うことができ、4年生の時の直感は間違っていなかったとわかりましたが、そのことはまた別の機会に話すことにしましょう。
助手の任期を終え、学習院大学法学部に赴任して1年が経ちます。以上のような経緯で知った法学の面白さを、学生諸君に伝えたい、というのが教育における私の目標です。(『社会との座標軸』より転載)
なぜ、研究者に?
少し、思い出話におつきあい下さい。高校生の頃、私は漠然と社会科学の分野に興味を持っていました。そして、3年生の夏、退屈な受験勉強を続けつつ、どこの大学のどの学部を受けようか迷いつづけていました。とりわけ、経済学を勉強するか、政治学を勉強するか、どちらにしようか、と。結局、秋も深まり、文化祭でちょっとしたパネルディスカッションを企画する中、人間自体、そしてその集団としての行動をより深く探求していると思われる政治学を学ぼう、と決意しました。こうして私は法学部に進むことにしたのです。当時は、インターネットがなかったため、大学に関する情報を集める手段は限られていました。今にして思えば、情報も集めずに一人よがりに考えていたような気がします。
なんとか翌春に大学に合格した私を待っていたのは、楽しい学生生活でした。宴会や徹夜での語り、映画や音楽。数多くの魅力的な授業(私の入った大学は全国でも有数の一般教養が充実したところでした)。そして、人によっては大学に出てこず、バイトに明け暮れているかと思いきや、サークル活動に熱心な人もいる。司法試験の予備校に通う人もいる。
このような、みんなが好き勝手に思うことをやっている空間で、ある一つの勉強に精力的に立ち向かうのはよっぽどの決意を要します。少なくとも、私の場合、政治学を一生懸命勉強しようという決意はもろくも崩れました。高校までの世界史や古文・漢文を勉強するのと同じスタイルで勉強するわけにはいかないのです。大学では、高校までと違って、基本的には自分で勉強するほかなかったのです。別に政治学に魅力がなかったわけではありません。ただ、他にもやりたいことがたくさんあったのです。
そして、いくつもチャレンジしたいことがある私は、結局どれも中途半端に足を突っ込んでしまっていました。哲学しかり、経済学しかり、文学批評も、フルートも、テニスも。気がついてみると、なんとなく大学の授業を消化するだけで、専門課程に進むことになっていました。政治学にもなんだかなじめないなと思い、消去法で法学を選び、授業に出ていましたが、なんだか難しくてよくわからないというのが正直なところでした。周りの友達と共に司法試験の勉強を始めてはみましたが、それも投げ出すことになりました。
こうして続いていた、なんとなく勉強しなんとなく遊ぶという生活を見直さざるをえなくなったのは、大学3年も終わり、就職活動の声が聞かれる頃でした。単なる面接の練習のつもりで参加したある外資系証券会社の研修(スプリング・ジョブ)で経済学の一領域であるコーポレートファイナンスの考え方を知り、法学部で勉強した商法との発想の違いに驚き、経済学と法学の考え方の違いに興味を持ったのです。そもそも、高校のときには経済学を勉強することを真剣に考えていたくらいですから、経済学のものの考え方には割と共感していたつもりでした。しかし、それと法学部で学んだものは何か違う。そのことを、遅れ馳せながらこのスプリング・ジョブに参加したときに、はっきり意識したのです。
ちょうどこの頃、3年生の学部試験がありました。その準備を通して、法学の諸科目の相互の関係や考え方の微妙な違いがわかってきました。このときやっと法学が少し面白いと思えてきました。
ただ、4年生になった時点では(当時は就職活動が本格的に始まるのは、早くても5月でした)、研究者になるつもりは毛頭ありませんでした。世の中には私などよりずっと頭の良い人がたくさんいて、そういう人が研究者になるのだろうと思っていました。そうして、5月末にある丸の内の会社の内々定をいただくことができ、そのまま翌4月からは会社員になるつもりでいました。
ところが、就職活動の合間に出ていた法学部の科目が意外と面白かった。商取引法、国際私法、財政学、ドイツ法そして租税法。それに、日本政治思想史のゼミ。商取引法、国際私法の授業では、さまざまな法分野に横断的に言及していて、実際に法が社会の中でどのように機能しているのかよくわかりました。ドイツ法の授業は、現在の法学の状況を歴史の中に位置づけてくれました。財政学と租税法、とりわけ後者は、法学と経済学の発想の違いを明示し、そこを大胆に架橋しようとする試みを提示してくれました。ゼミでは、高名な政治学者、丸山眞男の著作を読むなかで、また教授の語りから、学問をすることの楽しさを改めて知りました。幸い、就職活動が終わっており、じっくりものを考える時間がありました。
7月に入って決意しました。やはり、研究者を目指してみよう。そして専攻は、高校以来の関心と最も近い租税法にしよう、と。意を決して、授業のあと、租税法の教授に声をかけ、思いの丈を述べました。教授に声をかける瞬間、教室のある建物から研究室のある建物へ歩く間に話したこと、研究室のある建物の応接室での教授の表情、すべてを今でも克明に覚えています。教授のアドバイスは、まず、何か短い論文を書いてみたらよい、というものでした。より詳細な助言を受け、雑誌を調べ、本をコピーして論文を書くうちに、研究への思いは、確信へと変わっていきました。私にこの仕事が向いているかどうかはよくわからないが、少なくとも、とても楽しい、と思えたのです。そこで、大学院の合格発表を待たず会社のほうには断りを入れました。運良く、助手として採用されることになり、翌年の4月から3年間、研究に専念することができました。この3年間に、数々のおもしろい書物、心に残る授業、畏敬すべき先生方に出会うことができ、4年生の時の直感は間違っていなかったとわかりましたが、そのことはまた別の機会に話すことにしましょう。
助手の任期を終え、学習院大学法学部に赴任して1年が経ちます。以上のような経緯で知った法学の面白さを、学生諸君に伝えたい、というのが教育における私の目標です。(『社会との座標軸』より転載)
インプットとアウトプット
法学の勉強は,知らないと始まらない,ということが多い.いくらセンスが良くても,いくら頭が良くても,実際に法制度や法律がどうなっているかを知らないと,論文が書けないし,発言もできない.日本の法律だけでなく,外国の法律も知っていることが望ましいとされるから,語学もあり程度出来ないといけない.
しかし,いい論文には,やはり何らかの優れたアイデアが必要である.日本の法律はこうなっています,アメリカの法律はこうなっています,というだけでは,紹介にはなっても論文とは言えない.法制度や学説の前提となっている大きな枠組みを理解せずに,表面的に事象を描くのは,自分の思わぬ方向にその議論が利用される可能性があることを考えると,危険ですらある.何らかの根本的なアイデアがあって,それを具体的な事例で肉付け,できれば論証していく,というのが私の考える理想的な法学の論文である.
ともかく,法学において,アウトプットの分量に比して,そのために必要なインプットの分量は多い.ある程度着想があってもなお,それを論証するために文献を渉猟することも少なくない.というのも,書き表したいアイデアがあるのに,それを裏付けるものが足りていないということが多いからだ.
こういうとき,ある意味,かなりイライラする.直接関係ないものまで,いろいろな文献を見て,使えるデータや判例がないか探さねばならず,多くの場合,徒労に終わるからだ.もっとも,アイデアがあるときにこそ,様々な文献を読まなくてはならないとも言える.自分の中で何か枠組みがあれば,その枠組みを検証する形で,能動的に文献を読むことができ,そうすると新たな発見の可能性も高くなるからである.いずれにせよ,アウトプットをしたいときにこそ,インプットをしなくてはならない.しかし,インプットが自己目的化すると,アウトプットに結びつかなくなる.難しい.
しかし,いい論文には,やはり何らかの優れたアイデアが必要である.日本の法律はこうなっています,アメリカの法律はこうなっています,というだけでは,紹介にはなっても論文とは言えない.法制度や学説の前提となっている大きな枠組みを理解せずに,表面的に事象を描くのは,自分の思わぬ方向にその議論が利用される可能性があることを考えると,危険ですらある.何らかの根本的なアイデアがあって,それを具体的な事例で肉付け,できれば論証していく,というのが私の考える理想的な法学の論文である.
ともかく,法学において,アウトプットの分量に比して,そのために必要なインプットの分量は多い.ある程度着想があってもなお,それを論証するために文献を渉猟することも少なくない.というのも,書き表したいアイデアがあるのに,それを裏付けるものが足りていないということが多いからだ.
こういうとき,ある意味,かなりイライラする.直接関係ないものまで,いろいろな文献を見て,使えるデータや判例がないか探さねばならず,多くの場合,徒労に終わるからだ.もっとも,アイデアがあるときにこそ,様々な文献を読まなくてはならないとも言える.自分の中で何か枠組みがあれば,その枠組みを検証する形で,能動的に文献を読むことができ,そうすると新たな発見の可能性も高くなるからである.いずれにせよ,アウトプットをしたいときにこそ,インプットをしなくてはならない.しかし,インプットが自己目的化すると,アウトプットに結びつかなくなる.難しい.
登録:
投稿 (Atom)